日本初の商用メールマガジンの話(その5)2009年03月28日 11時17分48秒

先日はINTERNET Watchの歴史の一部を出しました.この時は,本当にインターネットに様々な権力が介入するのではないかと思ったり,さらには様々な規制がかかるのではと思ったりしました.
かつては『性善説』で運営されていましたが,現在では無理かもしれません.当時,「ユーザーは現在は飛行機のパイロットのようなものだが,これから自動車のドライバーの様に誰でも扱えるようになるから,今まで通りには行かないと思う」と言われていました.
さて,昔話を思い出してみます.報道の方針は基本的にインターネット上のニュースですが,時々特集や集中企画を作成していました.Watcher には色々な分野のスペシャリストがいらっしゃったので,特集や集中企画の執筆を任される事があります.私もいくつか書きました.「こんな若輩者に任せていいのかなぁ」と思っていましたが,実際に記事になった後での批評を見て,好意的なものを見つけるとうれしいものです.大学の同級生は研修期間の最中だというのに,自分は大学院で研究をしながら一方で第一線で働いているというのは,不思議な気がしていました.
特集や集中企画では,自然科学系のサイトの紹介が多かったように思います.この事が,社会に自然科学の情報を伝達,普及させる事,あるいは高校生に自然科学の面白さを伝える事に関心を持つきっかけの一つとなったかもしれません.

日本初の商用メールマガジンの話(その4)2009年03月25日 23時16分23秒

昨日記した,1997年の出来事の話です.
神戸連続児童殺傷事件(酒鬼薔薇聖斗事件)という事件が発生しました.この容疑者は当時14歳の中学生でした.あまりに残虐な犯行であるが故に,一部の写真週刊誌は未成年ですがこの中学生の顔写真を掲載しました.
ところがインターネットでは,顔写真どころか本名も一部で流れており,それに気付いた人たちが騒ぎ始めました.当然,INTERNETWatch の編集部でもこの動きには気付いていました.この自体にどう対応するか.結論は,当時編集長の山下氏による『神戸小学生殺人事件に関する本誌の方針について』の通りです.この話題については報道しないとしました.(この方針に関して,読者から賛否両論があったようです)
この事件から約12年.インターネットは爆発的に普及しました.また,未成年者による凶悪犯行は増えている印象があります.犯行の度に匿名掲示板等で容疑者の顔写真や本名,その他のプライベートな情報が流れる状況です.上記の方針をよく読むと,IT系にしては遥か未来である現在の様子を,当時から予言していたように見えます.

日本初の商用メールマガジンの話(その3)2009年03月24日 21時57分45秒

Impress Watch 年表というものがあります.2006年に10周年を迎えた際に作成されたものです.(先日の創刊1996年4月1日1996年2月1日の誤りでした)
1996年2月にINTERNET Watchが創刊され,この週刊ダイジェストとして3月にFREE Watchが創刊されました.創刊前の事前アンケートで「月額400円ならば読む」という回答が多く寄せられ,結果としてINTERNET Watchは月額300円となりました.その後,PC Watch が7月に創刊されました.
少々変わっているのは『窓の杜』です.このサイトはもともと,『秋保窓』というWindows用のフリーウェア,シェアウェアを紹介しているサイトが東北大学のサーバーの中で公開されていました.ところが,企業の広告を載せるという事で「国立大学の関係者が学術目的のネットワークを,営利目的に利用している」という批判がなされた事等があり,移設したという経緯があります.
その他にもいくつかの企業と組んで創刊されたWatchシリーズはありますが,諸処の理由により休刊となっています.

私が関わっていたのはINTERNET Watchです.編集部は少人数でかなり無茶な労働体制で調査,編集作業を行っており,当時のメールの発行時間帯を見ると,日が変わった午前という事が当たり前のようにありました.海外(特にアメリカ)から飛び込みのニュースがあり,それに対応するとなるとやはり遅くなるのでしょう.また,編集者やWatcherが執筆した記事は,副編集長の山下氏の鋭いチェックが入り,OKが出て初めて掲載されるというものでした.よりよい記事を作るための,真っ正面からの意見のぶつかり合いも耐えなかったと聞きます.
病気で休む編集者が続出し,綱渡り状態で発行していた事もありますが,さらに編集部だけでなく日本のインターネット自体を揺るがす事態が1997年に発生します.その事については,後日記します.

日本初の商用メールマガジンの話(その2)2009年03月23日 17時27分07秒

外部記者のWatcherは,それぞれの分野で特技を持っている人たちが集まりました.専門的な知識,考察能力は素晴らしいのですが,他人に伝える文章を書くという点では,私も含めて苦手な方がいらっしゃいました.
情報提供,記事投稿はメーリングリストを利用して行っていましたが,意図を伝えきれないメールが送信される事がありました.その度に副編集長の山下氏が明快な論理で,時々衝突しながら,よい方向に持っていくようにしていました.他にも優れた編集者がメーリングリストにたびたびメールを投稿する事により,文章の書き方やルールを学んでいくという事になりました.
とはいえ,メールでやり取りしていて意思の疎通ができなくなると,ケンカ腰になったり,最悪の場合は悪口を送る事にもなったりします.そういう事を避けるためや編集部とWatcherの方との意志確認のために,しばしばオフ会が開かれました.「こういうメールを送るのは,どんな人だろう?」と疑問に思う事がしばしばありまして,会って初めてお互いの考えが分かり,意気投合するという事もありました.
正式な創刊は1996年2月1日です.(←日付を訂正しました)創刊から13年になります.当時,私は大学生で卒業研究に取りかかるところでした.Watcher の若手の中には高校生で参加していた方もいたと思います.もちろん大人が舌を巻くような知識,技術を持っていたために,採用されたのです.個々に名前を挙げる事はやめておきますが,その方達は現在では産業界,大学で活躍をされていらっしゃいます.

日本初の商用メールマガジンの話(その1)2009年03月22日 15時01分08秒

皆さんの生活で,メールマガジンを1日どれくらい受信していらっしゃいますか?
おそらくゼロという方は非常に少ないのではと思います.
メールマガジンは,今や新聞や雑誌と並ぶメディアにまで成長した感があります.今日は,メールマガジンが初めて発行された頃の話を振り返ってみようと思います.

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アスキーを辞めた方々がインプレスという会社を立ち上げ,様々な出版物を発行していました.1995年頃は月刊誌のインターネットマガジンや,「できるシリーズ」が売れ筋だった様です.当時はWindows95発売の狂想曲の中にIT業界はあり,インターネットはまだそれほど普及しておりませんでした.
しかしWindows95の爆発的な売れ行き等で,インターネットの利用は飛躍的に伸びるだろうという予兆はありました.この動きを報じるには月刊では遅い,週刊でもまだ遅い,それでは日刊で報じるのはどうだろうか.その報じ方も印刷物を出版するのではなく,メールマガジン(当時は「電子メール新聞」と読んでいました)として読者に送信していくのがいいのではないか.この考えから発行されたのが,日本初の商用メールマガジンであるInternet Watchです.この考えを進めたのは,井芹昌信氏(現 (株)インプレスR&D代表取締役社長)と山下憲治氏でした.山下憲治氏は既に「できるシリーズ」の生みの親として大活躍していました.
メールマガジンの発行には,編集者が必要です.創刊当時は井芹氏が編集長,山下氏が副編集長となり,インターネットマガジンの編集者の一部が移籍して,情報収集と執筆にあたりました.ただ,それだけでは世界中の情報を収集するのが追いつきません.当時は今のような検索ロボットが発達していなかった時代です.そこで,Watcherと名付けられた外部記者を雇い,情報提供,記事執筆に対して原稿料を支払うという形にしました.活動度合いに応じて契約解除することがあり,人数の増減は大きかったのですが,当初は50名,最大時は70名ほどの方が外部記者として働いていました.今では,ライブドアニュースやオリーブニューズの市民記者でも,同じような流れになっているのではないでしょうか.ただ,Watcher は特技がある分,個性も強い人が多かったように思います.
私はインターネットマガジンの読者投稿で,自分で有用だと思った情報を時々送っていました.そのため,Internet Watch を創刊するということで,1995年10月に突然電子メールをインプレスから受け取り,呼ばれました.そして,協力を頼まれました.情報系でない大学生に声をかけるところが少々不思議でしたが,協力することにしました.そして,その他にも編集部がこれはと思う人たちに協力を呼びかけて,1995年12月1日に創刊準備号が発行されました.