J.J.Thomson,電子の存在を証明2008年12月31日 10時55分56秒

UK-JAPAN2008のクリスマス企画で書いているイギリスの物理学者の話です.今日はJ.J.トムソン(Joseph John Thomson,1856~1940年)です.
書籍商の家庭に生まれ,両親は息子を技師にするつもりで14歳の時にオーウェンス・カレッジ(現在のマンチェスター大学)に入学させます.ここで2年間学ばせた後,父親は見習いとして工場で働かせるつもりだったようですが,父が在学中に亡くなる事により,そのまま勉学を続けます.
卒業後,1876年にケンブリッジのトリニティカレッジに入学します.1880年に次席で卒業後,キャベンディッシュ研究所に入ります.当時の所長レイリー(Reyleigh)のもとで,陰極線の研究を行います. 電流の正体が何であるかは,電磁気学,電気回路の問題として重要です.ファラデーにより真空放電の実験がなされたことに始まる陰極線の研究で,その正体が何であるかが論争となっていました.
1884年にレイリーが辞職したために所長選挙が行われ,トムソンはわずか28歳で所長に選出されます.所長になってから陰極線の実験に関わる様になります.彼は陰極線の正体は粒子であると考えていたようです.
陰極線に電場や磁場をかけることによる曲がる事から,陰極線を構成する粒子の質量と電荷の比が分かります.真空放電とはいえ,わずかに気体が存在するところで放電させる訳ですが,放電の元となる金属や,中に入っているガスの種類に依らず,粒子の質量と電荷の比が同じだという事を確かめました.また,水素イオンよりも質量が1000倍以上小さいということから,陰極線を構成している粒子は原子よりもうんと軽い事がわかりました.
トムソンが "corpuscles" と呼んだ陰極線を構成している粒子について,ストーニーにより1891年に電子と名付けられました..またトムソンは,原子はプラスの電荷を持つ粒子の中に電子が含まれているという,プラムプディングモデルを提唱しましたが,これはラザフォードの散乱実験により誤りである事が示されました.
トムソンは1906年,気体の電気伝導に関する理論および実験的研究でノーベル物理学賞を受賞します.真空放電,陰極線の研究は高く評価されました.

恒星の大家,Eddington2008年12月30日 15時50分31秒

UK-JAPAN2008のクリスマス企画で書いているイギリスの物理学者の話です.今日はアーサー・エディントン(Sir Arthur Stanley Eddington,1882~1944年)です.
クエーカー教徒の両親のもとに生まれたエディントンは,2歳の時に父を亡くし,母親の手で育てられます.16歳の時にマンチェスター大学に入学し,物理学を専攻します.この時点で既に数学と天文学において素晴らしい才能を示していたようです.1902年に卒業し,翌年にケンブリッジ大学のトリニティカレッジに入学します.1905年に修士号を取得してキャベンディッシュ研究所に移ったものの,物理学では芳しい成果を挙げられなかったようです.そこで数学に専攻を変えますが,そこでもいい成果が挙げられませんでした.
1905年の終わりにグリニッジ天文台の助手として勤務します.ここが転機でした.小惑星 Eros(433番)の視差を解析する新たな統計的手法を確立し,1907年にスミス賞を受賞します.このことによりケンブリッジ大学のトリニティカレッジの特別研究員となります.1912年にはダーウィンの息子がついていた教授職に推薦され,さらに翌年にはケンブリッジ天文台の台長になります.
エディントンの挙げた業績の中で大きなものの一つは,1919年に行った皆既日食の観測です.一般相対性理論に依ると,太陽の重力により背後の恒星からやってくる光が最大1.75秒(1秒は1/3600度)曲がる事が予言されました.この予言が正しいかどうかを検証するのに,太陽の光が遮られる皆既日食の機会が必要でした.そこでエディントンはアフリカに行って観測し,検証を行いました.もっとも,この観測結果が決定打になったかどうかは,近年は疑わしいようです.
また,エディントンは恒星の内部の理論を徹底的に研究しました.現在ではエディントンは恒星の研究の大家として知られています.特に恒星の中で重力とガス圧がどのように働くかという物理過程を明らかにしています.この結果は現在,エディントン限界と呼ばれる恒星の光度の限界として知られています.また,恒星が核融合で輝いているという事を初めて提唱しています.
専門的な研究だけでなく,エディントンは一般向けの本を沢山書いています.中には現在でも販売されているものもあるようです.

Wolfram,複雑系そして計算機科学へ2008年12月30日 12時01分17秒

UK-JAPAN2008のクリスマス企画で書いているイギリスの物理学者の話です.スティーブン・ウルフラム(Stephen Wolfram,1959年〜)の続きです.
1980年にわずか20歳で博士の学位を取得した後,ウルフラムはすぐにカリフォルニア工科大学で教授に就任します.当時はファインマンも在籍しており,「ここで次にノーベル物理学賞を受賞するのは彼だ.」と言わしめたといわれています.
その後も素粒子論,宇宙論で様々な研究を進めていきますが,途中で不思議な研究も行っています.1980年にComputer Algebraの講演を行っています.これはコンピューターで代数計算を行うシステムの事です.そして1981年にこのアイディアを実現したソフトウェア SMP (Symbolic Manipulation Program) を商業リリースします.
理論物理学の計算は,素粒子論,宇宙論で大変複雑なものです.私が行う研究でも,等号の後がノート1ページ以上に達する計算がしばしばあります.こういう計算を簡略化するために,ウルフラムはコンピューターを用いた計算の実用化に至ったのではないでしょうか.
この後,ウルフラムの研究対象は徐々に別分野に移っていきます.進化の計算モデルとして考えられる,セル・オートマトンについて取り組み始めます.規則は単純であるものの,その振る舞いは非常に複雑であるという複雑系と呼ばれる分野の研究です.この分野でも,23歳で「最先端の物理学をまとめあげた論文しか載らない雑誌」に研究成果を発表します.
  • Statistical Mechanics Of Cellular Automata
    Rev.Mod.Phys.55, 601, (1983)
その後ウルフラムは1983年にカリフォルニア工科大学からプリンストン高等研究所に移り,1986年にイリノイ大学に移ります.そして1986年に複雑系研究の学術センター Wolfram Research Inc. を設立します.
Mathematicaは1986年から開発を始め,1988年にバージョン1がリリースされます.2008年秋,バージョン7がリリースされ,機能がますます拡充されています.
ウルフラムはMathematicaの開発とともに複雑系研究を続けています.この成果はA New Kind of Scienceという本に2002年にまとめられています.Mathematica のマニュアルに負けず劣らずの大著です.

奇才 Wolfram2008年12月30日 11時37分06秒

UK-JAPAN2008のクリスマス企画で書いているイギリスの物理学者の話です.今日はスティーブン・ウルフラム(Stephen Wolfram,1959年〜)です.Mathematicaの開発者として有名ですが,実は物理学者としても名を馳せています.
父の Hugo は小説家,母の Sybil はオックスフォード大学の哲学の教授でした.幼い頃から才能を発揮したスティーブンは,わずか16歳で学術論文を執筆します.そしてオックスフォード大学で物理学を専攻し,17歳で卒業.その後,カリフォルニア工科大学(カルテク)に進み,20歳で博士の学位を取得します.近年まれに見るペースでの学位取得です.
ここまでで,既に異才を放っていました.物理学者ならば,如何に活発な研究者であるかが分かるかと思います.
  • Hadronic Electrons?
    Austral.J.Phys. 28, 479-487, (1975)
    最初の(出版された)学術論文
  • QCD Estimates for Heavy Particle Production
    Phys.Rev.D 18, 162, (1978)
    如何にして重いクォークを含む粒子が出来るかを,量子色力学を用いて考えた.
  • Observables for the Analysis of Event Shapes in e+ e- Annihilation and Other Processes
    Phys.Rev.Lett. 41, 1581, (1978)
    電子−陽電子対の消滅において起こりうる事象の研究.一番引用されている論文.
    この論文の抜粋は
    Event Shapes in e+ e- Annihilation
    Nucl.Phys.B 149, 413, (1979), Erratum-ibid.B 157, 543, (1979)
  • Abundances of Stable Particles Produced in the Early Universe
    Phys.Lett.B 82, 65, (1979).
    宇宙初期における粒子生成に関する研究.
  • Bounds on Particle Masses in the Weinberg-Salam Model
    Phys.Lett.B 82, 242-246, (1979), Erratum-ibid.83B: 421, (1979)
    電弱統一理論を用いて粒子質量の制限を与えた.
  • A Model for Parton Showers in QCD
    Nucl.Phys B 168, 285, (1980)
    量子色力学を用いたクォーク,グルーオンのシャワーのモデル
  • The Development Of Baryon Asymmetry In The Early Universe
    Phys.Lett.B 91, 217, (1980)
    宇宙初期におけるバリオンの非対称性.
  • Baryon Number Generation in the Early Universe
    Nucl.Phys. B 172, 224, (1980), Erratum-ibid.B 195, 542, (1982)
    宇宙初期におけるバリオン数生成.
ここまでが博士取得までの業績です.日本でこれくらいの業績を挙げれば,今では非常に就職が厳しいですが,助教以上にはすぐに着任できるのではと思います.素粒子論,宇宙論における多大な業績を,わずか21歳までで挙げているのです.
このまま研究を続けていくとどうなるのか?非常に期待をされたようです.

19世紀の物理学を覆う雲と Kelvin2008年12月29日 20時08分17秒

UK-JAPAN2008のクリスマス企画で書いているイギリスの物理学者の話の続きです.ケルビン(Lord Kelvin,1824〜1907年)の電磁気学,熱力学の業績を挙げてきました.
ケルビンの業績はそれだけに留まりませんでした.物理学者としてではなく技術者としても一流でした.19世紀の半ばには,遠距離の通信として電信が普及してきていました.1854年,ストークスは大西洋を横断させる海底電信ケーブルの敷設を提案し,これに関連するファアデーの実験についてトムソンに意見を求めました.そして,トムソンは現在でいうところの帯域幅問題を解決しました.1856年にトムソンは電信会社の取締役に選ばれ,紆余曲折を経て1866年に電信ケーブルの敷設に成功します.この功績でナイトに除せられます.
その後も1890年に王立協会会長に就任,1892年に男爵に叙せられます.この時,トムソンはケルビン卿となります。電磁気学,熱力学,流体力学,さらには地球物理学,通信の分野で幅広い活躍をしていましたが,晩年になって新しい物理学,科学技術が展開しようというところでは,未来の予測が難しかったようです.X線の発見に懐疑的だったり,気球や飛行機は成功しないと述べたりしていました.ただ,1900年に行った講演(The London, Edinburgh and Dublin Philosophical Magazine and Journal of Science, Series 6, volume 2, page 1 (1901) に収録)では,黒体輻射マイケルソン・モーレーの実験についてが説明できていないと述べています.これこそが,前者は量子力学,後者は特殊相対論の発展の重要なポイントとなっているのです.